昭和49年02月12日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
実に自然な無理のない信心を、教祖様ご自身が身に着けられておられればこそ、こういう御理解になっておると思うですね。教祖の神様ぐらい自然主義と言う様な事を申しますが、大自然主義を通された方はおられないと私は思いますね。神様の仰せ通りという事ですね。天地の親神様の仰せ通りに動いておられます。そこには人間の考えとか智恵とか、憶測では想像もつかない事を、神様のお心のままに動いておられる。
そしてその中に信心の、教祖ご自身も稽古をなさっておられる。金光様のご信心は願うた事が成就して行くというのではなくて、願い以上のおかげになって行くと言う事。かと言うてその願いと言うものが、ないかと言うとある。だからそれを又願わなければおられない、切実なものもある訳です。例えばお金がない時には、金銭のお繰り合わせを、芯から願わなければおられない。体が弱ければ体の事を本気で願わなければおられない。それもやはり自然です。
だからここの所を何のこだわりもない、実に素晴らしい日傭取りは出て来る訳にはいかん、病人があったら、それは捨てておけない。参って来る事は出来んという風にです。そこの所を、今日の御理解の中から、本当に自然の働きを大事にする。神様の思し召しを大事にする。神様の心を大事にすると言う事を、合楽では自然の働きを、そのまま神様の働きとしてそれを大事にする。
だからそのおかげと言うものが、自然に遠うなる自然にいつの間にか、何とも言えん味わいになってきておる。こう申しますとだから実に自然を大事にし、神様の働きを大事にし、そのおかげと言うのが自然に事が整なったり、成就したりしてくる。その成就の仕方と言うものが、何とも口にも言葉にも表現出来ない様な素晴らしい、何とはなしおかげ受け取るなぁと言う事です。
五年十年と信心を続ければ続けるほど、何とはなしにおかげを受けとるなぁと言う、自然を大事にするから、自然に事が整い成就して来ると言うおかげ。これは低い所へ高い所から水が流れて来るように、スムーズに感じますけども、スムーズはスムーズですけれども、願った事が全て成就して行くと言う事じゃないのです。私は今朝方お夢を頂いて、ある島でしょうね。そこに布教しておるようである。そこの人達が素直で素直で、おかげ頂くんです。もう願い通り、言い通りにおかげ頂くんです。
それで私がおかげをさっさとやっておると言うのが、大きなこんな鯛を一人で、一う抱きずつこうやって渡しておんです。ただそれで帰りには持ちきらんけんでち言うて、又海の中にこうやって返して行きよるんです。二三匹持ってからそして夢が覚めてから、私が感じる事は、何と味わいのない事だろうかと思うておる。願いが願い通り成就しておると言う事である。いや人間は欲がありますから、あった上にも下さいと言った様な願いをする。又は御神意ではなかろうと思う様な願いもする。それが成就する。
あんまりおかげが、ずっと頂くもんですからそのおかげが、帰りにゃ又返して行くと言う位なお粗末な事になっておる。何という変哲もない日々であろうかと言う様な感じで目が覚めた。大体今日のはご神夢じゃなかったんじゃなかろうかと、私は思うた位でした。有難さもなからなければ、どう言う事か意味が分からなかったけれども、今日私この七十一節をずっと読み下させて頂いている内にです。
ははぁこの事だったなとこう思わせて頂いた。私共が願いと言うものが成就したり成就しなかったりと言う事が、実を言うたらおかげなんです。例えば一つの歌なら歌が作曲されます。只そのドレミファソラシドという風に、スーッと上に上がっただけとか。ドならドとかソならソだけで、ズーッと音律と言うものがあった訳です。いかにもリズミカルな様であって、これは変哲もない歌だろうと思うです。低いとこがあり高いとこがある。時には激しく又優しく、又は淋しく悲しくと言う様なものがです。
その歌の中に表現されてこそその節づけこそが、私は素晴らしい歌であるようにです。私共の人生も矢張りそうじゃなからなきゃならん。そうして一つの歌が出来あがって見てです。いい歌だなぁ何とはなしにおかげを受けておるなぁ。自然の働きを大事にしよう大切にしようと言われるから、只自然を大事にする大切にすると言う事は、決して楽な事ではない場合もある。寒い事もありゃ暑い時もある。
けれども暑ければ暑い寒ければ寒いで、それを大事にして行く内に又穏やかな秋もありゃ、花咲く春もあると言うようなもの。それがいつの間にか何とはなしにおかげを受けておるおかげである。私は今日は美登里会でございますけれども、こんな事ではいけないと自分でも思うんですけども。美登里会の日はなんか朝から心が何か知らんけれどもウキウキ致します。ウキウキすると言うのは心が軽々しくなると言う意味じゃなくてですね。今日また一生懸命本当な信心の話を聞いて下さる方達が集まって来る。
しかも本気でそれを行じようとする姿勢の人達が今日集まって来る。いくらどんなに素晴らしいお話しを頂いてもそれを右左にする。そりゃそうじゃろばってんと言うて、聞いておるような会合ではなくてです。私はそういう意味合いで美登里会の方達が一番素晴らしいと思うですね。純粋です。皆さんもやはりそれを楽しんで来るように思うです。又話を聞いて貰う私も、何とはなしにですね楽しいです兎に角。ですから私共がです夜夜中どう言う事がないとも限らん、おかげはわが家で受けよと言う。
おかげはわが家で受けれる、そういう働きと言うものがです。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけとこう仰る。美登里会の方達が信心を求めて、今日楽しみに皆さんが集まって見える。本当に信心の稽古に通うて来る。だからそういう信心の稽古と言うのが楽しくあるように。それを持って帰って自分の家で、それを行の上に現したり、稽古をして行ったりして行くと言う事が有難いいや楽しい。
それは願った事が願った通りに成就すると言う事ではないけれども。その願いが願い通りにならないという所の味わいと言うものを、信心の稽古をしなければ分からん。例えば一つの願いと言うものが、自分の願いが真が欠けておった、一心が欠けておった迫力が欠けておったという風に反省して。又願ってならないと言う事じゃないのですからね。私はそういう特別に願わなければならないと言う事こそです。一つのリズムの中にです、一つのアクセントが出来る事だと思うですね。
切実な心で特別な願いをしなければおられない事がある。病気をするとかやっぱ全快のおかげ頂きたい。何時何時までに幾ら幾らの金銭のお繰り合わせを頂かなならん。それでんやはり、私は今までここ辺の所を、お取次ぎを頂いてお願いをしたら、もう後は親先生に任せときなさいと言う。また事実それが本当なんです。けれどもお取次ぎを頂く姿勢と言うものに一心が欠けておる、真が欠けておる迫力が欠けておっては、おかげにならんという事です。もうお取次ぎさえ頂いとけば後は親先生にお任せする。
こっちは信心の稽古をしっかりしよればええと。なる程それが本当なんです。れどもお取次ぎを頂く精神がです、一心が欠けておる真が欠けておる迫力がない。これでは神様がおかげを下さろうとしても、おかげを下さりようがない。お互いのお取次ぎを願うという事でもです。本当にどうでもこうでもと言う、一心が出らにゃいかんです一心が。お取次ぎを頂かんなら頂かんでもよかと言ったようなのは、それはあまりもの信心です。どうぞよろしくお願いします。
そのどうぞよろしくお願いします代わりには、真の限りを尽くします。信心の稽古もします。改まりします磨きもします。私共はそういう願いの内容と言うものを、検討させてもろうた上でです。私は右になる事左になる事は、親先生任せであり神様任せであると言う事。そういうおかげがです五年十年と続いて行く内に、自然の成り行きの素晴らしさと言うか働きの素晴らしさと言うか。寄りて整なうと言う事になる。
自然を大事にする。成り行きを大事にする。成り行きそのものがです、例えば難儀な事であったら、それを黙って受けて行くという事だけじゃないのです。それが難儀な問題であるならその難儀な問題を、私共が一心の真を尽くして願って行くのです。神様は願われ役、氏子は願い役とすら教えておられますから、こげな事ば願いは出来んそげな事はないです。一心の真を持って迫力を持って願わなければいけません。
その願いが私は、合楽の方達の場合は、少し欠けておったなと言うのを、昨日あたりから感じさせて頂いております。ちゃんとお取次ぎ頂くきんよか、それはあまりもの信心。お取次ぎ頂く姿勢である、内容である。一心であるか真であるか、どうでもこうでもと言う迫力があるか。そうしておいて人間の浅い智恵考えでは分からない、神様がそれを右と願って、返って左の方にして下さるような事もある、その時点を有り難く頂くのが、自然を大事にする事です。成り行きを大事にする事です。
起きて来る問題を黙って受けて行くという事ではない。成る程泣き泣き辛抱せねばならんような事もあるけども、泣き泣き辛抱しなければならない程しの事であるならば、事である程に、私は痛いのである、辛いのであるとするならばです。一心の真を追求してしかも迫力を持ってです。どうでもおかげにして下さいという願い。この辺の所が金光教の信心が素晴らしいと思う。ただ自然意識と言ったようなもんじゃないです。大自然主義なんです。人間が生きて行く上に、様々な、暑い寒いを感じます。
辛い悲しい事も感じます。そういう時にそれを黙って、金光様金光様と受けて行くという事じゃ決してないです。この御理解の中に御教えの中に、願え願えと言う事が沢山出て来るでしょう。愈々ぎりぎりの時には、ままよと言う心で願えと仰るでしょうが。実意を持って願えとも仰る。だから願っておる事が一心であるか真であるか。それにどうでもと言う迫力があるか。どうでもと言うて願って、それが願い通りにならない時に、初めて分からせて頂く事は、それは私共の願いと言うものが浅かった。
これは頂かん方がおかげであると言うように、分かって来る訳です。願いもせずに頂かずしといて、それも神様のご都合だと言うような、私は迫力のないものであってはならないと思うです。私はこの七十一節を、今日はずっと読み下すと言う感じです。まあ何と無理のない、サラサラとした教えであろうかと思います。それは高い所から低い所へ水が流れるように感じます。
けれどもその水の流れに障害がある、様々な難所もあるけれどもです。その難所こそ又はその様々な障りがあるという事もです。私は一つのおかげのアクセントとして行かなければならない。只高い所から低い所へ水がスーッと流れるだけ、願い事がズーッと成就するだけだったら、こんなに変哲のない生活はないと思います。願い事が成就したり成就しなかったりという所に、素晴らしさがある。所が願いと言う事は、どうでもおかげを頂かせて貰う、どうでもと言う願いがなからなければいけない。
一心がなからなければいけない。真がなからなければいけない。それでいて右と願って、左となるような場合がある。そういう時にです私は素晴らしい、激しいとか又は賑やかなとか、様々なリズムと言うものが生まれて来る。そしてそれが五年経ち十年経ちして行く内にです。一つの素晴らしい一大音響と言うか、考えてみて本当にあれもおかげであったな、是もおかげであったなぁ。あん時にはおかげじゃない事を思いよったばってん、やっぱあれもおかげであったなと。
しかも金光様の信心させて貰うと、何とはなしにおかげが、そのように成就して行くという所へです。金光様のご信心の本当なおかげを感じます。この御理解をただ安易に頂きますとです。信心の稽古と言う事が、日傭取りやらは毎日参ってくる事は出来ん。病人があったら、病人をほっておいて参ってくる事は出来んという風に、言うておられますけれども。信心の稽古をさせて頂くという姿勢の中に、暇がない又は、病人を抱えておると言うような場合の工夫と言うか。
おかげを頂くと言う事の上に於いては、これでおかげは頂けるとしてです。信心を頂くという、信心の稽古をさせて頂くと言う事の上にはです。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと言われる、信心の楽な所と又は厳しい信心させて貰う者の姿勢と言うものを、ここに示しておられると思うです。しかも信心の稽古がです楽しゅう、今日の美登里会じゃないですけれども、一緒に参加させて貰う私もお話さして貰う私も、何とはなしに今日は楽しい。
それは本気で皆さんが信心の稽古に通うて来られるからだとこう思うです。だから信心の稽古、そのものも楽しゅうなからなければいけない。話を聞くと言う事だけが楽しいじゃない。それを持って帰って、我が家でおかげを受けるという所の、信心も大事にしなければならない。同時に私共の成り行き、この七十一節には自然に無理のない成り行きという事を、感じますがその成り行きの中にも、自然を大事にすると言う事の中にも、暑い時もあれば寒い時もある、痛い思いをする時もある。
悲しい思いをする時もあると言う事。そこん所を願って行く事は、自然に反する様な思い方は間違っておる。それは願う事が本当である、願うからにはおかげを頂く事が本当である。そのおかげが頂けんとするならばです。そこん所に私共が一考を要する所である。一心か真かどうでもという迫力持って願っておるか。それも願う事が自然である。そして出たとこ勝負その結果をです、右左言わずにそこの時点を大事にして行くと言う事が、愈々自然の働きを大事にする事です。
そして後で分かる事はあれもおかげであったと分かる。それが五年十年経って行く内にそれがハッキリして来る。取分け今日は、皆さんが願っておられる願いが、只お取次ぎを頂いておけば、それでいいと言ったもんじゃなくて、願うからには工夫が要る。一心であるか真であるか、どうでもと言う迫力があるかないかと言う様な事。でなかったら願わんでもよい様な感じがする。願うからには一心の真を貫いての願い。そういう姿勢でなからなければならないと思うですね。
どうぞ。